縁起目次
首 番 羽黒山荒沢寺
第1番 羽黒山正善院 第2番 羽黒山金剛樹院 第3番 長瀧山善光寺 第4番 福地山長現寺 第5番 桃林山永鷲寺 第6番 白狐山光星寺 第7番 寺尾山法光院 第8番 椙尾山地蔵院 第9番 湯殿山大日坊 第10番 良茂山持地院 第11番 見龍山円通寺 第12番 洞瀧山総光寺 第13番 東林山宝蔵寺 第14番 梅枝山乗慶寺 第15番 本居山龍沢寺 第16番 松河山海禅寺 第17番 薬王山東光寺 第18番 生石山延命寺 第19番 鳥海山龍頭寺 第20番 春王山光国寺 第21番 鳥海山松葉寺 第22番 清流山洞泉寺 第23番 光国山勝伝寺 第24番 萬歳山冷岩寺 第25番 明石山龍宮寺 第26番 大日山長福寺 第27番 大日山井岡寺 第28番 新 山 龍覚寺 第29番 修行山南岳寺 第30番 高寺山照光寺 第31番 湯殿山注連寺 第32番 太白山吉祥寺 第33番 金峯山青龍寺 番 外 慶光山観音寺 在所連絡先一覧
庄内札所霊場御縁起序文
わが国における観音札所霊場は、人皇第六十五代花山法皇が、衆生済度の思召しによって関西の地に、三十三ヶ所の観音札所霊場を造り、自ら御詠歌を作製して、観音菩薩の妙智の力によって三十三身に変化して、我等の罪業を消滅し、その利益(りやく)に浴せしめんがために、発願せられたのがそのはじめであるといわれている。
当庄内の地に札所霊場の設けられたのは、正徳四(1714)年羽黒山荒沢寺の大恵東水和尚(三山史の著者)が藤島、鶴岡の僧俗を集め、霊験あらたかな観音霊場三十三ケ所を選定し、当
国札所と名づけられ、和尚自ら各地を巡錫してその実情に即した御詠歌を作製せられたもので、その後この霊場に名をかり、他国から隠密の類が入国するようになったので、藩主酒井公もこれを防がんがため、一時巡礼を廃止されたものであるが、廃藩後、御詠歌の流行並びに戦後平和観音霊場設置に伴い、再び観音霊場参りが盛んになってまいったので、神社霊場を改めこれと同時に名を庄内札所観音霊場と改めたので、各寺の御縁起を作製する必要に迫られたものである。
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首番
羽黒山 荒沢寺 聖観世音
創立年:推古天皇十四(606)年六月二十四日
開山:蜂子皇子照見大菩薩(欽明天皇十三(552)年八月二十日八十歳で遷化)
開基:弘俊大師(皇極天皇元(655)年十二月二十八日六十歳遷化)
堂宇:本堂 庫裡 地蔵堂 常火堂 不動堂 阿弥陀堂 山門 五開祖堂 観音堂 元三大師堂
本尊:湯殿山大日如来 月山阿弥陀如来 羽黒山羽黒山観世音菩薩
寺宝:後小松天皇筆元三大師画豫 三山関係古記録類 徳尼公木像 女人禁制碑
ひとのよの ねがひもつみの やまふかく
のぼればきよき のりのつきかげ
当寺の開山は人皇三十五代崇峻天皇の御子贈溢照見大菩薩といわれ、その創立は推古天皇時代で羽黒山最古の寺院である。
開山蜂子の皇子勅照見大菩薩の別修業の跡に足長(最高位の人)弘俊が一宇を建立し、開祖の恩沢を記念して広沢山荒沢寺と称し、羽黒山八大伽藍の随一となる。
後に役の行者神慶大菩薩並弘法大師などもこの地で修行せられたので開山大士が、湯殿山大日如来の和魂(ニギタマ)を地蔵尊とし、荒魂(アラタマ)を不動明王としして祀り、湯殿山御宝前鎮火大権現ともいわれ、聖之院、経堂院、経堂院を荒沢寺三院と称し、また地蔵堂は酒井家の祈願所である。
常火堂は日本三常火の一つとして有名。
不動堂は「荒沢不動」として全国に分祀され、尊信を一身にあつめ特別の崇敬を受けた霊地となり、羽黒山奥の院として女人禁制の聖地となったのである。
今でも境内には芭蕉翁の筆になる「是より女人きんぜい」と大きな石牌がある。
明治維新の際、羽黒派修験総本寺として天台宗に所属し、昭和二十一(1946)年羽黒修験本宗を設立した。
羽黒山と月山の参道に位しながら、佛地で残ったのはこの霊地が如何に尊崇されるかを証明しているものである。
第一番
羽黒山 正善院 聖観世音
堂宇:本堂 黄金堂(国指定重要文化財) 庫裡 お竹大日堂 地蔵堂
鐘楼堂 仁王門 山門
本尊:湯段山大日如来 月山阿弥陀如来 羽黒山観世音菩薩
本寺:荒沢寺
たのもしき のりのひかりの こがねだう
つきぬちかひも よよにしられて
黄金堂が当院の観音堂である。
はじめは手向山中禅寺正善院と称されており羽黒山八大伽藍の一つ中禅寺の首坊であった。
大同年中慈覚大師が止錫し、現に奉祀してある大黒天像は大同三(808)年伝教大師の刻んだものといわれている。
建久四(1193)年八月、源頼朝が土肥実平を奉行として黄金堂を建立寄進してから、山号を金堂山と改め観音像三十三体を安置したので応化堂とも呼ばれ、また羽黒山大堂として寺号を長寿寺ともよばれた。
文禄五年上杉家重臣直江山城守および酒田城主甘粕備後守が黄金堂を補修したが、文政五(1822)年手向村全戸を焼いた。
大火のさい、黄金堂一宇だけを残して全伽藍が灰となった 。
明治維新廃仏殼釈騒動のとき羽黒一山が瓦壊するに及んで羽黒山荒沢寺の塔頭となり、羽黒山荒沢寺正善院といわれるに至りかろうじて難をまぬがれ、法灯を護持した。
昭和二十一(1947)年羽黒山修験本宗を設立して本来の姿に復し、戦後は平和観音第一番の霊場となった。
昔は○○山○○寺○○院○○坊と称するのが正しい呼称といわれており、その下に坊が沢山あったそうである。手向山中禅寺は下居権現を祀り羽黒山元羽黒といわれる。
黄金堂が建立されてから、池の周圍の佛像を一堂に収め江戸時代孝徳の行いで有名なお竹大日堂と弁慶の粕鍋も安置せられている。
第二番
羽黒山 金剛樹院 聖観世音
開山:蜂子皇子勅論照見大菩薩
堂宇:本堂 庫裡 茶枳尼天堂 観音堂 元三大師堂
本尊:阿弥陀如来観世音菩薩勢至菩薩
寺宝:羽黒山中興別当天宥自作の庭園羽黒山五水随一金剛清水
本寺:荒沢寺
よのひとを もれなくすくひ たもうこそ
わがみほとけの ちかひなりけり
康永三(1344)年権律師智弁、輪換の美を整え当山中興とうして崇められたが、文政五年に手向村全焼の際に類焼し、ついで明治三年の神仏分離の布達で痛手を蒙り、宝物などが悉く散失し古記録類なども散失する始末で、現在では往時を偲ぶよすもがない。
最上義光公の局妙円禅尼は、この寺の裏山に世をのがれて隠棲し、いまでもお局山の跡がある。
文政五(1822)年類焼した寺は、慶長十六(1611)年妙円禅尼の寄進で建立されたといい傳えられている。
本尊聖観世音菩薩を安置する観音堂は当山本堂の裏山にあるが、文政十三(1830)年羽黒山別当山海僧正の建立によるものといわれ、天井の絵は庄内の画師が寄進したもの。
本尊聖観世音は明円禅尼護持佛と傳えられている。
羽黒山八大伽藍の一つ来迎山千勝寺の首坊で金剛樹院と称した。明治維新の頃当寺の住職は飽海郡山楯志田六右衛門家出身の広田和尚であったが、そのころ境内に清水が湧出し金剛清水といわれ、羽黒山五水の随一であたったそうである。
宗制改革のさい仏寺としてのこり、手向の荒沢寺を本寺として天台宗に帰入、昭和二十一年本姿に復した。
第三番
長瀧山 善光寺 聖観世音 狩川町三ヶ澤
創立:元禄元(1688)年
開山:然光全廓大和尚
堂宇:本堂 庫裡 如来堂 観音堂 開山堂 稲荷堂 聖徳太子堂
本尊:釈迦牟尼仏(慈覚大師作と伝う)
寺宝:阿弥陀如来 唐時代三彩焼狛犬
本寺:光星寺
きざはしの のぼるがごとく ぜんこうじ
おろがむくどく ちかいたのもし
当寺は本寺光星寺第四世然先全廓(ぜんせん
ぜんかく)大和尚の開山である。
本尊の釈迦牟尼如來は慈覚大師の御作と傳えられている。
元和八年酒井忠勝が領内巡視のさい、近侍の士栗田伝右衛門がこの地をえらびのち御堂を建立し釈迦牟尼仏を安置した。
しかし、善光寺は長く阿弥陀仏をまつる寺として知られている。
この阿弥陀如来は第二十代欽明天皇の御代に当時の大臣であった蘇我の稲目へ朝鮮から献上せられた閻浮檀金の阿弥陀如来と称せられていて日本に渡来した最初のものであるとのことである。
また、観音堂に奉祀されている唐三彩狛犬は、当時阿弥陀如来渡来の際に先達として共に海を渡って来たものされている。
山香焼といわれ、中国に於いても最も古いものといわれている。
酒井忠勝公は高壮なる御堂を建立して如来尊像を奉祀し、ながく酒井家の御守として崇拝された如来像と共に聖観音と勢至菩薩を祀り、当寺の三尊として信仰を集めている。
第四番
福知山 長現寺 聖観世音 東田川郡広瀬村狩谷野目
創立:文禄二(1593)年五月
開山:笑山祖閣
堂宇:本堂 庫裡 観音堂
本尊:釈迦三尊(寛永五年四月鶴岡市今野善文の寄進)
寺宝:聖観音 飛田周山筆滝見観音(掛軸)
本寺:羽黒町長厳寺
もろびとの ねがいもふかき ふくちどう
だいじだいひの ちかいたのもし
そもそも当寺の開創は文禄二年五月といわれているが、もとは後田の松尾山長厳寺の隠居寺として取り扱われ、重要文書等は本寺に収めていたが、その後の火災で焼失した。
当寺の開基は長厳寺第五世笑山祖闇大和尚といわれ、境内に第十八世の墓石があるので、二十数代を経ているものと推測される。
本尊の釈迦 文殊、普賢の三体は鶴岡市の今野善六という人が寛永五(1628)年に寄進されたものである。
境内にある観音はもと村の鎮守福地大権現であったのを明治三(1870)年神仏分離のさい預ったもので県廰に寺社課が設置されてから大正十五(1926)年に神社の社格を規定され、その時に当寺に移されたものであり、翌年九尺(2.7m)に二間半(4.5m)の観音堂が建立された。
なかに祀られている聖観音菩薩は羽黒山より勧請した立像で一尺二、三寸(36~39cm)ぐらいの極彩色で優美なものである。
四月九日と九月九日以外の日は住職でもご開帳を禁じられている。
第五番
桃林山 永鷲寺 十一面観世音 東田川郡東栄村添川
たれもみな いのるこころは ようじゅうじ
ふかきねがひを うるぞうれしき
創立:宝徳三(1451)年三月
開山:天与是準和尚・寛正(1461)二年八月二十七日遷化
開基:永鷲寺院殿宝誉栄士大居士・寛永十六(1639)年三月十三日
堂宇:本堂 庫裡 開山堂 衆寮
本尊:釈迦牟尼仏
本寺:大山善宝寺
末寺:流泉寺 宝泉寺
もともと当寺は華厳寺と称し、約七、八百年前添川の西南中山の地に建立され、その後数百年を経て当地に移されたという。
「苔むす三つの石塔こそ添川楯の主、柴氏代々のはかなるぞ」という添川集落の歌がある。
昔盛んに唱えられたものでこの詞は当寺を詠ったものである。
柴氏とは添川城主梅津中将井実高公のことで、氏は鎌倉の執権北条時頼の頃国探題として幕府より羽黒山に遣わされた三人の長吏のうちの一人である。
俗別柴右衛門といわれ宮城県白石の城主にもなったという。
この梅津中将こそ当寺の中興開基に当たる人で、公は深く佛法に帰依し、自分の守護佛なる観音菩薩とともに現今の地に再建したという。
時に宝徳三年三月のことである。
この華厳寺を永鷲寺二世大興是準(たいこうぜじゅん)和尚が当寺の開山になり曹洞宗に改宗し、梅津公の祈願所として十万信徒の信仰を深めたものである。
第六番
白狐山 光星寺 十一面観世音 狩川町三ヶ澤
つきともに あまねくてらす こうしょうじ
のりのひかりを あきらかにみん
創立:貞観三(861)年
開山:住宝波伝蜜公九師
堂宇:庫裡 本殿 御住堂
本尊:釈迦牟尼仏
末寺:四ヶ寺
当山は今を去る一千数百年前の貞観三年に、住宝僧正が東北地方巡錫のみぎり羽黒山にとどまっていた際、東北の彼方に瑞雲がたなびくのを見て、彼の地に霊地のあることを感得し、その地に赴き祈願すること数日。
ついに白毛金尾の老狐どこよりともなく現われ、僧正の前に来て先導を乞うた。
僧正は老狐の後に従って山また山を越えて、瑞雲のたなびく森に着かれた。
この地こそ今は宇賀の森と呼ばれ、大弁財尊が安置されている霊場である。
住宝僧正は深く冥護を謝し、一宇梵刹を建立して已が稔侍佛である観音像を本尊とし、大弁財天と托(←偏はにんべん)枳尼天(だきにてん=キツネの化身=稲荷とされる)の三尊を安置された。
「老狐一族を扶持せよ」という僧正の遺言により、今でも毎月七日斉日には供物が献じられる。 延々とっつく鳥居が山懐にとけこみ、その奥に光星寺がひつそりとしたたたずまいをみせる。
そしてさらに奥には住宝嶺、倒竹、字賀白狐山、光明堂、星池、虎石、灯明石の八大霊石があり人々は吉号光星寺より「白狐山」の出号を知っている。
荘内札所第六番の霊場として長い歴史をもつ隣村の添津観音堂は光星寺が管理している。
旧来の本尊十一面観音は、いま鶴岡市外川原の仏師白蓮堂氏作の平和十一面丈六観音の胎内に納められ、多くの人々の信仰をあつめている。
開山の恵通禅師が光星寺と命名したと言い傳えられている。
第七番
法光院 如意輪観音 東田川郡黒川村黒川
すみぞめの ころもやさらす くろがわの
なにもみのりの あらわれにけり
創立:平安時代
本尊:不動明王
本寺:京都智積院
慶長十七(1612)年に最上義光公より黒印状を寄進せられ、日夕顕密の秘法を修して国土安穏、万民快楽を祈念し、一日もその勤行缺くることなく今日に至ったものである。
最上家はもとより武藤、酒井家祈願所として由緒深い名刹である。
羽黒山荒沢寺の住職であった大恵(東水)和尚が正徳年中に創始した出羽国庄内三十三番札所の中の三十一番として指定せられたものを、酒井家の祈願所であった関係から一時中止したともいわれている。
これ庄内藩が領内に隠密の進入をおそれ、巡礼を差し止められたからともいわれている。
全国の札所は西国札所の御詠歌を奉唱しているのに、庄内札所のみ特別であったのはこのためであるといわれている。
然るに昭和の御代に至って庄内札所第七番として、再び西国札所観音を勧請して霊顕に浴している次第である。 令和5年に新しい観音堂が建立されました。
第八番
椙尾山 地蔵院 千手観音 西田川郡西郷村馬町
いつのひか またうままちの ぢぞうゐん
うまれあわせし けふをよろこべ
創立: 平安時代
堂宇:本堂 庫裡
本尊:千手観音
本寺:永福寺
当院の開基は犬祭で名高い大山町の椙尾神社の創立と同じであると傳えられている。
延喜式に記載されている小物忌神社とされている椙尾神社が神仏習合して祀り、繁栄を極めていた時代に山内寺院として坊があり、別当職に並び最上氏より黒印(寄進状)をいただいている。
地蔵院はその一つであった。
明治維新に神仏分離となり、六供といわれる六坊あったが地蔵院を除いて全部廃止となり、当院だけが独立したものである。
その当時の住職であった晃順和尚が明治二十(1887)年七月に本堂再建を志し、椙尾神社氏子二町四十八村を所有して信徒とし、毎年守護札を配分して十万信徒の浄財を仰ぎ、氏子有志とともに越後の国から五葉松材を購入して建立したという。
このためこの観音堂を五葉松殿ともいわれている。
当山の本尊は四国三十三所の内、山城の国清水寺の本尊千手観音の分霊を勧請して安置して霊験あらたかな観音像である。
第九番
湯殿山 大日坊 聖観世音 東田川郡東村大網
創立:天長二(825)年
開山:弘法大師
開基:渡海上人
堂宇:本堂 庫裡 開山堂 観音堂 仁王門 鐘楼堂
本尊:金胎両部大日如来
寺宝:最上義光持仏金銅釈迦如来 春日局寄進棟札 両界曼陀羅 薙刀
梵鐘等
本寺:総本山 長谷寺
末寺:大円寺 元海寺 全海寺 長海寺 寿海寺 教海寺 大日寺 曼陀羅
寺 精国寺 慈専寺 法徳寺 金剛院 十輪寺 観音寺
本堂には、木食行老真如海上人即身仏{天明(1786)六年九十六歳}が安置されている。当村越中山の進藤仁左衛門という。
ちかいおく あまねきみなの みほとけに
こころをこめて ねがへおほあみ
大同二(807)年平城天皇のとき弘法大師が唐から帰朝した。
淳和天皇のとき天長年間弘法大師が勅命によって日本国中衆生済度の遍歴に出た。
出羽の国田川郡にはいったとき大川があり、波上に梵文金色の文字が浮かんだので水上を尋ねて行ったところ湯殿山にいたった。
一本の杉の大樹の梢に光を放つものがあり、手を開くと五鈷が飛び下りて来て手の内に収まった。
大同二年帰朝のみぎり唐の明州において密教宣布の祈誓をこめて虚空に投げた護持の五鈷であった。(応檀の杉と唱え今なお境内にある。)
すなわち一宇の伽藍を建てて湯殿山滝水寺金剛院大日坊と号した。
しかし山を女人結界とされたので参詣できない女人のために、如来の尊容を刻んで大日坊本堂に安置した(が現在は開帳を禁じられている)。
そして湯殿山女人遙拝所、表口別当として弟子の渡海上人を開基とされた。
のち徳川の三代将軍家光に家督これあるよう春日局が旗本粂助右衛門を代参として祈願、祈願がかなったので家光は寛永十八年六月三間四面堂(再建)金剛界大日如来、御紋附幡幕器物等を寄進した。
明治二(1869)年廃仏毀釈にあい神山となり、同八年火災にあい七堂伽藍が失われたが仁王門は難をまぬかれた。
昭和十一(1936)年二月三日地辻りのため大日堂地下半分四、五尺の落差を生じ、大雪の重さのため倒壊、境内移転のやむなきにいたって本堂、庫裡、仁王門、開山堂観音堂、鐘楼等が移され、大日堂は失われ、本堂に廻廊を作って御沢物を安置することになった。
当山の観音は元和年中当時住職慶範和尚が西国三十三観音を勧請して境内に安置した。
後元禄に入ってから城主酒井忠真公の御内室が奉納された本尊と共に百体観音を安置している。
なお観音堂は寛永十五年酒井公の寄進である。
第十番
大佛山 持地院 千手観世音 酒田市上台町
たのもしや むかしながらの つえざくら
よくこそしげれ いつのよまでも
創立:応永二(1395)年
開山:湖海理元禅師
開基:蒲池勝太夫
堂宇:本堂 庫裡
本尊:正身釈迦牟尼仏 鎮守千手観世音菩薩(胎内仏 千手観音 三蔵稲荷尊天)
本寺:岩手県胆沢郡永徳寺
応永二年、仙台胆沢の葛西家次男湖海埋元禅師(永徳寺二世)が庄内古湊を巡錫のさい、蒲池勝太夫の帰依をうけて、同地に伽藍を創建した。
文安二(1445)年十月七日蒲池氏は兵乱によって滅亡し、小湊の民家が次第に酒田に移転したのにともなって長禄三(1459)年、四世天南が酒田持地院小路に移転、元亀元(1570)年十二世通天が同内匠町に、さらに寛政九年二十九世万量が火難をさけて現在地に移った。
三十七世宗淵和尚の代に酒田大震災と火災にあっており、現在の倣藍は明治三十二(1899)年再建されたものである。
大正三(1914)年三十七世竜州宗淵和尚ぱ殉難者慰霊の金銅大仏を建立した。
五丈三尺の立像で各地から参詣者が相次いだが、この像は昭和十八(1943)年戦争のため供出した。
現在の大仏は平成四(1992)年に新たに建立したもので、台座を含めた総高17m(像高13m)ある。
堂内の千手観音座像はもともとこの霊佛は葛西家の御内佛で、理元禅師奉持し大本山総持寺高尾観音堂のご本尊といわれているである。
また、西国八十八か所の由緒深い霊地に奉られていた観音で、明治の神佛分離で廃佛の御難にかかられた際、豪商今泉氏により東京飯倉に遷座され、昭和八(1933)年中興尼覚聖禅尼がこの地に移奉した。
御尊体には三百余の玉石をちりばめ、金色絢爛とした像である。
胎内仏として千手観音と平和観音(三蔵稲荷尊天=ダキニ天)の二尊仏が安置されている。
千手観音は慈覚大師の御作と伝えられ、また平和観音は二十五世斗山百胤和尚祈願の老枯桜樹再生開花の縁起があって(別名花さか観音)鎌倉時代の作。
両観音は毎年六月十七日開帳されている。
第十一番
円通寺 準胝観音 飽海郡観音寺
のぼりなば あとふりかへれ ふもとやま
ぼだいのみちを いそげともども
創立: 応永二十五(1418)年正月十五日
開山: 太宗禅乗 永正十五(1518)年七月五日寂
開基: 水月院殿雲州太守阿閣梨大居士
堂宇: 本堂 庫裡 開山・霊牌堂
本尊: 聖観世音菩薩(鎌倉時代)
本寺: 福井県竜沢寺
末寺: 宝泉寺 洞泉寺 梅香寺 種雲寺 快雲寺 浄勝寺 梅林寺 宝蔵寺
貞観七(865)年定額寺となった観音寺が円通寺の前身であるという。
応永二十五(1418)年一月二十五日福井県竜沢寺の宗禅乗禅師がこの地力を巡錫のさい観音寺に逗留し、水月院殿雲州太守阿闇梨大居士を開基として堂宇の再興を指揮し、曹洞宗に改めて円通寺と号した。
天正年間(1573~1591)観音寺城主来次氏の菩提所となり、山門は観音寺城の裏門であった。
天和(1683)三年に越前滝沢村から大叟禅乗という大和尚が巡錫にきて再興したとされている。
このあと寛保二(1742)年に火災で焼け、翌三年現在の麓に移轉再建された。
明治四年ふたたび火災にあい、理在の伽藍はその後の再建である。
同寺の御本尊である聖観音は、作者は不明であるが、衣紋模様や彫刻の深い御容相から受ける感じは全く神々しく、御前にぬかづくとしばし冷厳な感じにとらわれてしまう。
本堂伽藍の三両引の紋は昔の観音寺城主来次家の家紋を使ったものといわれ、裏城門を山門として使用されている。
更に境内には来次家の墓もあり、裏手の山一帯に観音寺城跡として館跡、池跡などが残されておりいまでもこの付近から土器などが出ている。
第十二番
洞瀧山 総光寺 如意輪観世音 飽海郡松嶺町
としをへて よもやかれじの このさくら
なかやまでらの あらんかぎりは
創立: 至徳元(1384)年四月八日
開山: 月庵良円大和尚
開基: 伊勢守佐藤正信公
堂宇: 本堂 庫裡 観音堂 開基堂 鐘楼堂 山門 薬師堂
本尊: 釈迦牟尼仏
本寺: 岩手県永徳寺
末寺: 県内二十四力寺宮城県五力寺
南北朝至徳以前に岩手県胆沢郡永徳寺開山道曳道愛の嗣子月庵良円禅師{応永三十二(1425年)示寂}が羽黒をたよって入山した。
そのころ城主佐藤伊勢守正信(佐藤嗣信の子孫という余目町宮曾根の佐藤家が佐藤氏末孫と伝えられている。)が良円和尚に帰依し、田地三百斗、山林五町歩を寄進し一寺を建立、至徳元年四月良円和尚を勧請して総光寺を開山した。
当寺には禅師の弟子が記した“開山禅師行状記”という巻物があり、師の一生_こまかく書いた傳記である。
開創以来二度焼失し、現在の堂宇は宝暦(1751~1763)年間三十九世儀円和尚が再建した。
当寺の観音は如意輪観音といわれているが、霊験あらたかな聖観音である。
また当寺の庭園は庄内の名園の一つである。
現在曹洞宗中本山として県内に二四ヵ寺、宮城県に五力寺の末寺を持つ。
第十三番
東林山 宝蔵寺 如意輪観世音 飽海郡上郷村山寺
おのづから ひらくたからの くらなれば
いつかはつもる のりのやまでら
創立:永享(1431)三年
開山:湖月自音大和尚
堂宇:本堂 庫裡 書院 地蔵堂 開山堂
本尊:釈迦牟尼仏
寺宝:総光寺
当寺は永享三年に総光寺第二世湖月大和尚が開山されたという。
当時は真言宗であったが、曹洞宗に改宗したのは酒井家が領主として入部してからである。
庄内札所十三番の観音は聖観音菩薩であるが、これは室町も中葉ころに寺の奧にある羽黒池から露見したといわれる霊像である。
奇しくも観音の縁日である七月十七日に、光明を放って出現したと傳えられているもので、近郊近在の信仰中心となっている。
本堂裏の小路を右手に降りて行くと、灌漑用水池として“ちまき池”がある。
青々と澄んだ湖面には常に清涼な趣をたたえており、奥日光の中禅寺湖を連想させる美観を呈している。
さらにこの湖の周圍には三十三観音石像が安置され、当寺に参詣する人に崇敬されている。
また当寺は歴代松嶺城主の信仰が特に厚かったといわれている。
第十三番として一般の信仰も高く、宝物が埋蔵されているという御神馬などの古跡もみられる霊場である。
第十四番
梅枝山 乗慶寺 如意輪観世音 余目町
ありがたや みにあまるめの ごりしやうは
このよばかりか のちのよのため
創立:至徳(1384)元年五月
開山:太初継覚大和尚
開基:安保太郎助形
堂宇:本堂 庫裡 山門
本尊:聖観世音菩薩
千四百坪の境内には老松大樹うつそうと繁み、その間に山門、石刻三十三観音などが点綴し、鐘楼、本堂、庫裏、その他建物が配置されている。
当寺の開基である余目城主阿保太郎助形の居城地で今も境内に安保家の五輪塔がある。太初 継覚を開山として南北朝に創立された。
開基の阿保氏は、太初継覚の師、越前国(福井県)瀧沢寺の梅山聞本を、乗慶寺の開山たるように懇請されたが老齢の故をもって辞し、高弟太初継覚を勧めたという。
寺宝に梅山聞本禅師の筆蹟一幅があり、応永二十三(1416)年丙申十二月十三日の筆記のあるものである。
梅山聞本禅師は、高僧の誉れ高く、足利三代将軍義満が頻りに出京を請うたが、辞して寺門をでなかったという。
ご本尊は聖観世音であり絵画、仏像の宝物が多く、近年銅造蔵王権現立像と銅像阿弥陀如来座像が発見され、いずれも鎌倉時代のものと推定されている。
また、乗慶寺の屋根は「起(むく)り屋根」ともいわれる勾配の反りが下向き凹みではく上方向で凸になっている雪の少ない関西地方に多いこの辺りでは珍しい建築様式である。
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第十五番
本居山 龍沢寺 聖観世音 飽海郡内郷村茗ヶ澤
いのるより はやあらはるる めうがさわ
のちのよかけて われをむかへ
創立:文明三(1471)年二月八日
開山:通庵春察大和尚
堂宇:本堂 庫裡 開山堂
本尊:地蔵菩薩
本寺:総光寺
当寺の聖観音は、御丈二尺(60.6cm)この辺には珍しい念の入った立派な彫刻である。
残念なことに、相当あちこち朽ちかけており、作者や年代の記録が明らかでない。
しかし姿勢、均衡はきわめてすぐれており、衣紋も流麗な刻み方でおそらく奈良時代に謹製されたものとみられている。
当寺は松嶺、総光寺の末寺に当たり、文明三年二月八日に、総光寺七世通庵春察が茗ヶ沢の沢入りに開山したと傳えられ、その後火災にあって宝永年間(1708頃)に現在の沢尻に移轉したといわれている。
更に大正七(1918)年四月、村内の観音堂を移転して境内仏堂として合併し戦後平和観音とした。
このあたりの沢一帯はいつも澄みきった空気がただよっておりすがすがしい感懐に包まれており、ひとしお寺院の尊厳が胸に迫ってくる。
またこの近く“大古淵”といわれる雨乞い池があり昔は干ばつが続いて困った時には、ここに集まって雨乞いをするとたちまち雨が降ったものという傳説もある。
第十六番
松河山 海禪寺 千手面観世音 飽海郡吹浦村吹浦
よそならず ここふだらくの たかんいわ
きすつなみを ゐながらにきく
創立:慶長(1596)元年九月
開山:正禅海安和尚
堂宇:本堂 庫裡
本尊:釈迦牟尼如来
寺宝:十六羅漢図 市原円潭筆
本寺:遊佐町永泉寺
海禅寺は慶長元(1596)年九月、永泉寺十七世正禅海安和尚が鳥海山大物忌神社の信仰に対して、民家の仏教信仰を高めようとして建立された。
しかし詳しい縁起は、明治二(1869)年に村内火災のとき類焼、大正三(1914)年一月六日の失火等により諸記録を焼失し不明である。
なお先住二十一世大法寛海大和尚が日本海の荒浪打ち寄せる奇岩怪石に釈迦牟尼仏文珠菩薩普賢菩薩の三尊と六羅漢を彫んで禅風発展を祈願したことは有名である。
荘内平和観音霊場第二十四番の本尊は二十四世五十嵐正覚悲願のヒメコマツの一木造り丈六(4.8m)千手観音像で鶴岡市外川原の仏師白蓮堂作。
また、その胎内には酒田市加藤安太郎氏寄贈の、石原莞爾将軍が信仰した文殊菩薩が納められている。
第十七番
薬王山 東光寺 十一面観世音 飽海郡東平田村飛鳥
ただたのめ いらかもたかく とぶとりの
あすかのてらの ひろきちかひを
創立:弘安二(1279)年
開山:僧 宗俊
堂宇:本堂 庫裡 開山堂 衆寮 中門
本尊:釈迦牟尼仏
弘安二年、真言宗慈念徳法阿闍梨によって創建されたと伝えられる。
最上義光公が庄内を領することになっだとき義光公は重臣である志村伊豆守光安に酒田亀ケ崎城を与えた。
この伊豆守の異母弟の一人に若くして得度出家して京洛の禅林で修業している宗俊という弟がいた。
伊豆守はこの宗俊を京より呼びもどして仏法結縁の教化にあたらせ東光寺に迎え入れた。
東光寺のご本尊は、羽黒、高寺、ともに庄内の三大霊佛として有名な十一面観音である。
羽黒の開山能除大師(蜂子皇子)の御作と云い傳えられている。
能除大師は酒田の港に浮木があり、常に光明を放っているのを山頂から拝見して、港に下錫して見たところ、桑の木であったという。
大師は自らおのを取り九尊を御刻にになったと云われている。
時に養老二(718)年である。
大師は本木三尊を高寺照光寺に、中木三尊を当山に、末木三尊を羽黒山にそれぞれ安置された。
中世に入って羽黒、飛鳥の御霊佛は不幸にも兵火により消失した。
安政(1854~1859)のころやはり同様の火災にあいながらわずかに残った高寺のご本尊改作に当たったときに、その余木で東京の名工西村芳斎氏が千三百年前の昔の容姿をそのままに同木のくしき因縁により再刻したものである。
また境内には一切経文を入れる「釘なし御堂」(釘を全く使用しないで組み建てたもの)の大布蔵がある。
第十八番
生石山 延命寺 聖観世音 飽海郡東平田村生石
あらたなる のりのしるしに おほいしの
おもきさはりも いまはのこらず
開山:弘法大師
本尊:不動明王
本寺:智積院
真言宗延命寺は幾多の名所、古跡を有する観光的、景勝地であり、山門近くには奇岩怪石がそびえて特有の霊気をただよわせている。
当寺は今を去る千百年前に弘法大師の開基と言い傳えられている。
往古は十八ヶ寺の末寺を擁し、またこの奧にある鷹尾山には三千坊の僧坊があり、昔の鷹尾山修験は羽黒山以上隆盛を極めていたところといわれている。
南北朝時代といわれる国に御二人の天皇を奉じ、同族相い争うというわが国史上悲しむべき哀史を綴った変則時代の修験大道場の遺跡であり、鷹屋山ろくにあたる大本坊山にあって元亨二(1322)年の弥陀をほじめ多くの板碑があり(うち二十三基の碑は県指定文化財)付近には身洗池や常香塚などがあって、南朝の忠臣北畠顕信郷、守永親王を奉じて潜匿したなどの傳説も傳えられていて、境内の一本一草が哀史を訴えるかのようである。
観音像は、名僧と知られた当山中興二世海上人弘仁弐(811)年楠材一本造りの等身大御丈四尺五寸(136cm)の国宝級のものであるが、一部破損のため指定にならなかったのが遺憾である。
十九番
鳥海山 龍頭寺 十一面観世音 飽海郡蕨岡村蕨岡
よにひろき つかひはつきじ とりのうみ
ちひろのさきは よしはかるとも
開山:慈照上人
堂宇:本堂・庫裡 開山堂 観音堂
本尊:薬師如来
寺宝:涅槃図 三千佛曼荼羅 木造阿弥陀如来坐像 黄檗版一切経
本寺:京都智積院
末寺:ニヶ寺
この寺は遊佐町蕨岡の上寺(うわでら)にある。
ここは鳥海山蕨岡口に当たり、すぐ近くには守護神たる大物忌神社がある。
また下には桜で名高い鳥海公園もその近くにある。
飽海平野や煙突が林立する酒田港を一望におさめることが出来る観光地としても、眺望と自然美とに恵まれているので年中参拝者で賑わっている。
當寺は醍醐天皇の御代に三宝準宮の末寺として新義直公(しんぎなおきみ)という人が松岳山観音寺として開基せられたものと言い傳えられている。
本尊薬師如来は以前鳥海山の本地仏だったといわれ、出羽一の宮大権現とよぼれている。
竜頭寺は最上時代一山三十三坊の学頭で、領主最上氏の尊信を受け、二十年ごとの造営にあたっては、杉松材二十石ないし三十石の寄進を受けた。
享保(1716~1735のころ中興深開法印に黄壁版一切経をそなえつけるほか、訪れる学僧のため四十俵あがりの田地を用意するなど教学振興につくした。
この法印の経歴ははっきりしないが、大石良雄の二男吉千代だという説もある。
明治維新の神仏分離のさい、古文書、刃剣をはじめ由緒あるものは大物忌神社に移された。
当寺観音は作者は不明であるが銅製の立派な御尊像である。
また当寺は常法談林学頭寺として昔は栄た寺である。
廾番
春王山 光国寺 聖観音 酒田市今町
これやこの うききにあへる かめがさき
かかるみのりの よにうまれきて
創立: 永正年間(1504~1520)
開山: 知慶法印
堂宇: 本堂・庫裡
本尊: 聖観世音菩薩
当山の旧記によると春王山満蔵院護持の観音堂は、出羽亀ヶ崎城の西方に、今を去る五百年程前の永正年中に、知慶法師が開創したといわれる霊場である。
当寺に祀られている本尊の聖観世音菩薩は、春日神工の御作で、一般信徒をわが子のようにしろしめし。
弘誓の深いことは海にもまさる御本誓という。
この霊像が当寺に傳わり、御堂を建立して観音菩薩を安置した。
最上義光が深く尊崇し三十三石の供養田を寄進され、一躍出羽国観音道場の節一位となり、以来庄内の領主はことごとくこれを尊崇したといわれる。
その後この地も花の町と化し、本堂や釈迦堂、馬頭観音堂、仁王門などの伽藍も壮麗なもので隆盛を極めたという。
不幸にもこれら壮麗な伽藍も享保(1716~1735)のころ灰と化したが、本尊雙輪の威徳は昔と変わらず、智慧の光高く慈悲の影は深い。
大正(1912~1925)になって佛法興隆の時に逢い十万の信者の崇敬によって堂宇を再建した。
観音堂屋根にきらめく剣かたばみの紋は城主の紋である。
廾一番
鳥海山 松葉寺 千手観音飽海郡吹浦村 吹浦女鹿
みはるかす よものやまかは とりのうみ
たかきをあほぐ めがのしらなみ
創立:万寿二(1025)年
開山:乃善大和尚
開基:慈覚大師
堂宇:本堂 庫裡 開山堂 観音堂
本尊:不動明王
寺宝:師如来阿弥陀如来慈覚大師像(等身大)
本寺:京都智積院
当寺は今を去る約一千年前の万寿年中開山第一世乃善和尚三崎峠に堂宇を建立した。
約八百二十年をへて戊辰(1868)役のさい兵火にかかって堂宇をことごとく焼失し、現在地に再建した。
鳥海山大権現薬師如来は月山神社の本地仏阿弥陀如来とともにすぼらしい作品として知られている。
また境内にある安倍貞任・宗任の五輪塔は最北端の陣地跡とともに有名。
明治初年の神仏分離まで鳥海山神宮寺の学頭とし、神佛分離により鳥海山大権現並びに末社の雷風神社本尊千手観音を当寺に安置したものである。
また三崎神社本尊慈覚大師の尊像も当寺に安置することになったのである。
また当寺よりは一望千里という日本海を望み天下の景勝地として四季参詣者並びに観光客で賑わっている。
昔人皇五十二代嵯峨天皇の御代三崎峠に手長脚長という山賊出没し往来の人を悩まし、道行く人なく村人は酉の刻の下りに至れば門戸を閉じ夜は火を焚いて寝しに佛天の加護にやいずれよりか現れしともなく三本足の烏現れ、山賊出し時は有耶と鳴き、出でざる時は無耶と鳴きしとか。
諸人その鳴き声を聞きその難をまぬがれしという。
今は国道第七号線を開通せしも三崎旧道及びとやとや森(南方産楠樹の一種たふの木)は当寺安置の御佛体とともに文化財に指定されている。
当寺所蔵の舞の神歌に 「こえもせず こえさせもせず みちのくの とやとやの森に 有耶無耶のせき 」
廾二番
清流山 洞泉寺 千手観音西田川郡東郷村猪子
たづねいる ひとこそかわれ とくのりの
あまねきかどの てらゐなりけり
創立:正保四(1647)年
開山:諦翁運察大和尚
堂宇:本堂 庫裡 観音堂 十王堂
本尊:観世音菩薩
本寺:鶴岡市正法寺
当山は正法第十四世諦翁連察(たいおううんさつ)大和尚の開山である。
観音堂はこれより遙かに古く、大同二(807)年の開創といわれ、弘法大師が一刀三礼の千手観世音菩薩の霊像を安置したのに創まると傳えられている。
大師東北巡錫の砌り、赤川に梵字の流れ来るのを観じて、遡って湯殿山を開き、顧みて戍(ママ)子の方向に当たるこの地を光明の地として霊場と定められた。
故地は現今観音森と呼ばれている。猪子の村名は方角を指して戍子と呼んだのが、いつのころからか猪子と書かれるようになったものであるという。
藩時代には武家の間に信仰厚く、鉄銅の小像を鋳て納める風習があった。
また本間光丘翁は宮殿を献じ祈願所として毎年米弐俵宛を寄進した文書が残っている。
廾三番
光国山 勝伝寺 聖観世音西田川郡栄村播磨
はりまなる しかまにとほき はてまでも
のりをおもへば ちかよりぞゆく
創立:延徳三(1491)年
開山:審巌正察禅師(延徳三年二月二十五日寂)
開基:示現十六世用室椿大和尚
堂宇:本堂 庫裡 開山堂衆寮 天王堂 楼門 総門 その他
本尊:聖観世音菩薩(鎌倉時代胎内仏)
寺宝:印度仏(縁起付) 最上義光公黒印
本寺:村上耕雲寺
末寺:高禅寺 地蔵院 妙心寺
開山の祖である審巌正察禅師は越後の国村上の耕雲寺第七世であり、師は仙台市輪王寺より村上に転任した。仙台輪王寺を出てこの地に来て、真言宗で別の所に寺があったのを改宗したものである。
禅師ははじめて現在地に堂塔伽藍を建立し、当寺において六十八才で示寂した。
ときまさに戦国乱戦の世で最上義光は武藤家を高館に破り、尾浦城をのっとる。
武藤家の臣砂田家一族がこの地に落ちのび播暦と称したがこの地域一帯は「どんじ」と呼称されていた。
天正年間播磨の国飾磨の城主赤松則村が足利氏と争ったがみじめな敗戦に終わったので、赤松の家臣兵庫之守、図書之守などが羽黒を頼って奥羽に落ちて来た。
また故郷をしのんで播磨と改め八幡大菩薩を祀り、鶴岡をはじめ西は湯野浜まで侵した。
兵庫、図書の両者が仲間割れし図書が一時地頭になったが、領民との間に不和が生じ、図書もまた没落するなど血生ぐさい下剋上の時代を過ごして、その後羽黒から天台宗宝蔵院と、当寺ともども現在の播磨に居をかまえることになり、この地を開墾してようやく生活も安定することができたという。 上杉、最上、酒井と三世を乗り切つてきた。
特に最上義光の帰依深く寺領安堵の黒印を賜わった。酒井藩時代には総穏寺を総緑所として里五ケ寺の筆頭となり、天神堂、善阿弥、湯ノ沢、文下長崎面野山、林崎その他一カ所に君臨してきた。
庄内札所の御詠歌に「播磨なる飾磨(しかま)に遠き果てまでも法を思えば徒歩(かち)よりぞ行く」と唱われてある。
当寺のご本尊は聖観世音菩薩で、一名身ごもり観音ともいわれており、おおむぬ鎌倉時代のものと思われるが優美な霊佛である。
また、往年の名力士として万天下をわかせた大関大達羽左工門の墓がある。
廾四番
萬歳山 冷岩寺 聖観世音狩川町
かりかわや かりのよながら きただての
ながればかりは かるることなし
創立:文禄二(1593)年
開山:頼山祖慶大和尚 貞享四(1687年)九月三日寂
開基:中興久山達艮大和尚 寛文十二(1672)年六月十九日寂
堂宇:本堂 庫裡 開山堂 衆寮 宝庫 玄翁堂 萬歳閣
本尊:釈迦牟尼仏
寺宝:玄翁禅師銅像 古鏡 香炉 真鐘輪燈 五具足
本寺:鶴岡市総穏寺
当山は文禄年間最上川のあたり荒鍋に創建、天台宗に属し北楯利長公の祈願所であり、寛永年間の晩秋天台三世玉叟察(ぎょくそうさつ)和尚が曹洞宗の傑僧玄翁心昭(げんのうしんしょう)禅師に降服せられ退山して現在の曹洞宗に改宗した。
師は鶴ケ岡総穏寺三世頼山和尚を開山に仰ぎ、自らは二世中興の祖として寺門の隆盛を計ったという。
第九世老卵(ろうらん)和尚は紫衣勅許直参内の勅命を拝した高祖であった。
現在の庫裡は安永五(1776)年、本堂は安永七(1778)年にそれぞれ再建復興し、さいわいに火災にあわず往古のまま現在に至る。
境内には聖徳太子一千三百年を記念する碑と玄翁禅師銅像がある寛永元年、藤原朝臣伊藤四郎右工門家勝の作である。
また四百年以上の樹齢と推定される夫婦老松が銘木として深い敬信をうけている。
当寺観音像は昭和二十五(1950)年に西国札所二十四番摂州の紫雲山中山寺より分霊、勧請の霊佛である。
勧請の本尊十一面観世音菩薩の霊像は、彫刻界の大権威者森野円象士会心の傑作で新たに開眼し平和観音として安置されている。
また三十三体の像は第二十二世霊山潭龍和尚が安政のころ西国霊場を三度巡錫して各霊場の土砂で謹作したものである。
廾五番
明石山 龍宮寺 聖観世音加茂町
たつのみや ちひろのそこの うろくづも
もらさですくふ めぐみたのもし
創立:天安二(858)年七月九日
開山・開基:慈覚大師
堂宇:本堂 虚空蔵堂 不動堂
本尊:聖観世音菩薩(慈覚大師作)
当寺の創建は今を去る一千百余年天安二年七月で、天台宗本邦第二祖慈覚大師の開基といわれている。
大師は清和天皇の勅を奉じて、奥羽地方を巡錫の途中、加茂付近は連日の大旱でなやまされ、住民は瀕死の状態にあった。大師の慈眼は、このありさまを傍視するに忍びずと、ただちに当寺を道場山としてトし、天安二年七月九日に佛勅がかない、龍道戒道の二大龍王妙相が示
したと傳えられている。
二大龍王は大師の教戒を受けて、たちまち時雨をもよおし、その沢四隣におおい、田畑のものも大いに実のり住民は復活の意欲をもやしたといわれ、大師は竜宮殿に聖観世音菩薩を祀り一宇を創建して明石山龍宮寺と称した。
その後治承三(1179)年に覚快法親王を中興とし、爾来その法灯を傳承し今日に至っているまた毎年六、七月ころともなれば彼方の沖に鯨が姿を現すので有名である。
当寺の本尊観世音菩薩は慈覚大師の御作である。
廾六番
大日山 長福寺 十一面観世音湯田川
わきかへる いでゆにひとを たすくるも
みなだいじひの ちかひならずや
創立:大同二(807)年
開山:行基菩薩
堂宇:本堂 庫裡 大日堂 開山堂 地蔵堂
本尊:秘仏十一面観世音菩薩(聖徳太子作と伝えられる)
寺宝:三千僧仏画 大日如来木像 大日如来 十六善神 梵鐘(小倉
右一郎作)
本寺:奈良県長谷寺
当寺の創建は今を去る一千年以上前の大同二年行基菩薩が開基と傳えられている。
慶長十七(1612)年最上少将出羽守義光(よしあき)公より百五十二石の寺領を賜っており、また酒井忠勝公の所領となっても、その寺領は改革されなかったというから格式も相当高い古刹と推定される。
その後貞享のころ真言宗豊山派の末寺となり、当寺は県下唯一の直末寺院であった。
当寺の本寺は奈良県桜井市にある長谷寺であるが、本寺と当寺としの周圍の状況は同一である。
普段は密封されている御本尊秘佛十一面観世音菩薩(聖徳太子御作)でさえも同一の容姿であるという。
当寺の宝物は先にあげた本堂秘佛の他に恵心僧都御作の三千像佛画は一幅に千人の僧がえがかれている。
縦八尺(2.64m)横七尺(2.31m)という大がかりのものである。
その画像が三幅というからたいしたものである。
弘法大師御作といわれれる石造大日如来は、五十年前に大日坂から下げられたものである。
廾七番
阿迦井山 井岡寺 勢至観世音西田川郡大泉村井岡
ゐのおかや むすぶつつゐの みづきよき
あかぬみてらを またもたづねん
創立:天長(825)二年
開山:源楽上人(淳和天皇第三皇子)
開基:淳和天皇
堂宇:本堂(護摩堂) 書院 寶蔵 仁王門
本尊:勢至観音
本寺:京都 智積院
末寺:圓蔵院
当井岡寺は天長二年 淳和天皇の御代に皇子基貞郷が高野山に於いて修行の後源楽上人と称え諸国の霊場を巡拝の末井岡の地に天皇の勅願所をして阿迦井坊遠賀廼井寺を設立したのを始めとする。
本尊徳大勢至観世音菩薩を祀り、その伽藍は広壮華美を極め所謂う七堂伽藍の宝塔、講堂、経蔵、鐘楼、食堂、中門、大門等建ちならび州中の巨藍として出羽高野と呼称され広く崇拝されたものである。
その後、治暦年中に消失したが鎌倉殿の祈願所として再建を見た。
そして領主武藤家信仰厚く、頼朝公菩提のために三百石余りの寄進があった。
その後も数度兵火にかかったが、中興及栄上人の時代に最上家によって再建され寺領百七十二石五斗五升を寄進された。
これ羽黒、遊佐の竜頭寺に次いで庄内第三に位する多額の黒印状である。
今も薫る庄内名園の一である庭は及栄上人の築造にかかるものである。
又四百年の歴史を持つ巨木の桜は京都から持ち帰って植えたものといい傳えられている。
当寺の宝物には大網地区の楯主であった渡野四郎左衛門重吉の奉納された懸佛二面(旧文部省重要美術品)をはじめ弘法大師筆般若心経、本尊黄金秘仏一体を始め数うるに余りあるものが現存している。
廾八番
新山 龍覚寺 聖観世音鶴岡市新山田甫
よをまもる のりのしるしに あらたなる
やまのこずゑに ありあけのつき
創立:仁安(1166~1168)年中
堂宇:本堂 庫裡 観音堂
本尊:大聖不動明王
寺宝:御城内大般若御用 弘法大師御真筆五大尊 不動尊慈覚大師御
真筆十六善神
本寺:奈良 長谷寺
一千余年前の羽黒山は、峨々たる山で、老幼婦女の参詣登山はおよびもつかなかった。
そこでその礼拝所として鶴岡城下西の一隅三ツ曲輪南側に一宇を建立 して便をはかった。
堂宇にけ羽黒の御分身である聖観世音菩薩を勧請して祀り、竜覚寺と命名した。
一般信徒の尊信も厚く寺門隆盛をみたが、この土地は御用地として使用する事となり浜中街道に移され、さらに慶長十七(1612)年最上家によって高畑土提上(現在泉町)に移建された。
元和八(1622)年八月酒井忠勝公は十三万八千余石の庄内藩主として上州高崎から転封、鶴ケ岡城に入るや、二の丸にあった富士権現と新山権現をここに移した。
ところがこの場所は城の鬼門にあたるというので竜覚寺は酒井公の御祈願所に指定された。
祈薦料は五十石だった。正月の年始めの諸礼式の時は恒例によって鶴岡市内の寺院の登城が許されるが、竜覚寺はそれら寺院の最上位の席に着くことが許された。
酒井藩の年始御規式は正月六日、黒書院で行われた。
こうした特別の思召によって竜覚寺は、酒井藩筆頭の寺位につき寺領百五十石をおくられ、さらに寺の瓦には全部酒井家の紋どころを刻してあるのを使用した。
以来二百六十余年酒井藩とともに在った。
観音堂は、寛文十(1670)年四月、酒井左工門尉忠義公が領主となり修造したもので、例年八月九日に祭りが行われる。
又明治維新の廃藩置県の際にはお城の四隅に祀った神仏は凡てこれを祈願所たる拙寺に下賜せられたので、珍しい佛像佛画多数、保存せられている。
更に竜覚寺には数多くの諸仏が安置されているが、そのおもなものは次ぎのとおり。
聖観世音菩薩、金剛界大日如来、古四法権現、新山権現、東照権現、摩利支天、弁財天、聖天、稲荷大明神、守本尊
廾九番
修行山 南岳寺 聖観世音鶴岡市銀町
いくちとせ くにやさかえん つるがおか
たえぬみのりの はなのかざしに
創立:承応二(1653)年神堂
堂宇:本堂 淡島大明
本尊:大日如来
寺宝:鉄竜海上人即身仏
本寺:朝日村注連寺
かつては花街として知られた七日町に建立されている柳福寺観音堂は、当寺とはかなり離れているが、その管理は七日町の町内会がおこなっている。
柳福寺の聖観音は聖徳太子の御作といい傳られており、会津若松の慈眼寺三世から奉移された観音である。
万治三(1660)年には藩の時鐘がおかれ町で暮らす人々に時間を知らせていた。
正徳年中に定められた出羽の国庄内三十三所札所の第二十九番霊場として十万信者の信仰の的となっていたが、明治二十一(1888)年五月八日には七日町一円が火災に遇い、不幸にも柳福寺も全焼せるも再建ならずして銀町の当南岳寺に所属したものである。
観音像は二寸(6.06cm)たらずの木彫で、大日如来のたなごころの中に安置されている。ご開帳は午年である。 七日町の観音堂では八月九日と十二月十七日観音菩薩のお歳夜でだるま市も開かれ多くの参詣者をよび、浅草の酉の市を思わせるものがある。
さて、銀町の南岳寺は、庄内藩酒井候の祈濤所であり、もと湯殿山祈祷所の一坊として、また朝日村注連寺の末寺として創建された。
しかし柳福寺につぎ昭和三十一(1956)年四月十三日の鶴岡市七日町大火で一山を焼失した。
火元は当寺であったがかろうじて御本尊、即身仏を災螂から守り通した。
その後土地も狭隘なため現在の地に居を移した。
卅番
高寺山 照光寺 千手観音東田川郡広瀬村高寺
たのもしな めぐみはよもに たかてらの
やまはけころも つゆにぬれても
開山:能除太子
堂宇:本堂 庫裡 開山堂 仁王門
本尊:千手千眼観世音
寺宝:羽黒山からの客佛多数
当寺は崇徳天皇永治年中(1141)山城法印永忠の記録によると、元正天皇養老二戌(718)年に当寺が建立されたとある。
慶長十七(1612)年に最上義光から黒印状を受け学頭坊となり、また江戸護国寺末となったこともあると伝えられる。
本尊は庄内三大権現の一つといわれる千手観音で、脇仏は十一面観音と軍茶利明王である。
これは崇峻天皇の第一皇子能除太子が酒田港の流木で造られたもので、本木で造った三尊は当寺に、中木三尊は飛鳥山に、末木三尊は羽黒山にそれぞれ祀られている。
昔の御佛体はすこぶる宏壮なものであったが、安政四(1857)年古記録と共に焼失した。
観音のご開帳は三十三年に一度であるといわれている。
三十三年の由来というのは、享保七(1722)年六月に観音御開帳があり、それは元禄(1690)三年はじめて御開帳してから三十三年目に当たっていることからきている。
当山には酒井家も毎年四月八日に祈願したという。昔から四月八日は高寺八講と称し、賑々しい祭礼が行われその前の六日に社家は獅子頭を舞ながら氏子をまわる習わしは無形文化財に指定されている。
卅一番
湯殿山 注連寺 聖観世音
かのきしに ねがひをかけて おほあみの
ひくてにもるゝ ひとはあらじな
創立:天長十(833)年八月
開山:弘法大師
堂宇:本堂 庫裡
本尊:大日如来
同寺は今を去る千百余年前の天長十年丑八月、弘法大師湯殿山御開創の砌り当部落に立寄り、時の楯主であった渡部修理太夫の援助を得て、そばにあった桜の老木に七五三縄を張り、袈裟をかけて、護摩壇をつくり「我に大日如来の霊場を示し給え」と四十九日祈願した。
祈願のすえに大師は八大金剛童子の案内で湯殿山の霊場を与えられた。
このため大師はこの地を清浄霊地として女人禁制の地と定め護摩を修した地に一宇を建立し一刀三礼の金胎両部大日如来をきざみ、これを本尊とし安置したというのが注蓮寺開山の縁起である。
それで湯殿山関係の寺院としては最も古く最も弘法大師に因縁の深いお寺である。
庄内札所第三十一番聖観世音菩薩は第百八代御後水尾天皇が当山の霊験あらたかなる事を聞こし召され、御祈願所として崇敬遊ばされ、陛下の御遺告により御自作の聖観世音菩薩の御香佛(秘佛)並御三帝の御霊牌を添え、御寄進遊ばされたのが当札所のご本尊である。
それで藩主でもこの寺の御門前御通過の際には下馬して通られたということである。
昔はこの寺は一山を日月山と号して湯殿山表口根本執行七五三掛坊護国院注連密寺と称し女人の山として一般婦人の登山は茲をもって最後とせられた。
文和四(1355)年火災にあったが、慶長六1601年最上義光から寺領三百石、まだ寛永二(1625)年酒井忠勝の祈願所として五十石を賜わり隆盛をきわめた。
空海開山以来この地は七五三掛部落と称されたと伝えられる。
また湯殿山法楽の発祥地でもあるこの山には、七五三掛桜、三鈷水などの名所のほか、宝物としては、最上義光の枕屏風、巨勢金岡の寛平法皇の画像、大日如来弘法大師の対面席の掛軸、弘法大師書軸、桜花の化石、桜木大日など、種々の宝物を蔵している。
また社会事業家でもある鉄門海上人の即身佛も安置されている。
丑とひつじの年には開帳を行い青年男子の護身法修行を行うことになっている。
卅二番
大白山 吉祥寺 千手観音 東田川郡山添村板井川
ちよをへて しげれるすぎの いたいがわ
ながれてきよき のりのみなかみ
創立:正平元(1346)年七月十日
開山:徹山旨廓大和尚
開基:武藤持氏
堂宇:本堂 庫裡 開山堂
本尊:文珠菩薩
本寺:金沢市大乗寺
末寺:徳昌寺 円林寺 禅勝寺 瑞竜寺 竜雲寺 慶昌寺 ほか四ケ寺
当寺の草創は、正平元年といわれ、開基は大梵寺城主武藤持氏公で、開山は金沢市大乗寺第五世徹山旨廓禅師と傳えられ開山禅師が湯殿山注連寺に駐錫しているころ、時の城主武藤持氏公は重臣を遣して禅師に祈祷を懇望されたが、わしは祈祷坊主にあらずとして拒絶された。
しかし再三の懇願によりやむなく注連寺を出発して大梵寺城に入り祈念したところ、城主はまもなく平癒したので城主は一寺を建立して謝意を現されたとのことである。
禅師は城下に留まって世塵にまみれる事を厭い、平炉に香を盛り、大鳥街道を上り、山添村常盤木を経て、西荒屋の西方を通り母狩山麓に入ったと傳えられている。
師はこの地に伽藍を建立し、吉祥寺と命名し、山号は武藤持氏の希望で大城山と称し、持氏は寺領田地三百石、山林唄里四方を寄進して寺領とした。
当時境内地は深山幽谷にあったので狐狼の被害を蒙ること甚大なので現在の地に移されたとのことである。
卅三番
金峰山 青龍寺 如意輪観音
めぐりきて こがねのみねに のぼるみは
はすのうてなの いろとこそみれ
創立:弘仁十三(821)年
開山:弘法大師(また慈覚大師ともいわれる)
開基:役小角
堂宇:本堂 庫裡 開山堂 観音堂 鐘楼
本尊:普賢菩薩 如意輪観世音菩薩
寺宝:聖観音銅造懸仏
本寺:奈良県長谷寺
当寺は現に文部省指定景勝地となっている金峰神社と同時代と言われている。
金峰山は天智天皇の十(682)年に役の行者である小角が開基であると言われている。
弘法大師が湯殿山開山の帰途霊夢に感得され、金峯山のふもと猿ヶ池に径竜がすみ、田畑を荒すのみか人帝にも害を及ぼすようになり住民の悲嘆大なるを知り、猿ヶ池に立寄られた。
すなわち池畔に護摩を修せられること二十一ヶ座、満願の日青竜ついに姿を現して苦痛のすえ中天に昇った。
住民歓喜して金峰山中腹にあった竜ヵ寺を池畔に移して青竜寺と改め鎮護国家済生利人の道場とした。 。
又来迎寺年代記に依れば開山は慈覚大師で弘仁三(812)年に建立したと記録されているが、この他天安二(858)年説もあるが弘仁三年説が有力である。
当寺の本尊は慈覚大師が金峰山の中腹に位置する中の宮に、七間四面の中堂を建立した時に安置した如意輪観音である。
当時は鎮護国家済世利民の道場として、最上義光公から黒印を寄進された金峰山の学頭でもあり、数ヶ寺の末寺を有する本寺格で常法談林を兼ねていた。
元禄十二(1699)年に真言宗豊山派に転じた。
聖徳年中旧庄内札所三十三番の札所になり、明治の神仏分離の際本来観音堂であった中の宮拝殿に安置されていた如意輪観音はじめ佛像は当寺に移され、札止め・おいずり納めの霊場となった。
当寺、寺宝として享徳二(1453)年の銘がある銅造観音掛佛が保存されている。
おいずりおさめの御詠歌に
おさめおく のりのころもは せまくとも
ひろきめぐみの かげはそへなん
番外
烏渡川原 観音寺 十一面観音 酒田市鵜渡川原
にごりたる つみもながれて うどがはら
こころにうかぶ じひのつきかげ
創立:慶長六(1601)年
開山:姿雄律師
開基:志村伊豆守光安
堂宇:本堂 庫裡
本尊:十一面観音
本寺: 酒田市竜厳寺
酒田亀ヶ崎城址 烏渡川原鎮座十一面観世音菩薩の御尊像は、曹洞宗の開祖である道元禅師が一刀三礼の御作であると称せられている。
亀ヶ崎城主志村伊豆守光安公の祈願所であった。
禅師南宋への留学から御帰航の際、観音大士の霊験に救われ無事帰国することが出来たというので、その恩徳に感じ、禅師は帰朝の後、大士の御尊像を彫刻せられた。
禅師はその佛像を肌身離さず、菩提得道の守護佛として秘蔵せられたと言い傳えられている。
往古豊臣秀吉がこの尊像に帰依し、これを殿中に奉安せしめたが後秀吉が最上義光公に後事を託するため、これを最上義光に贈られ、義光叉之を功臣志村伊豆守に与えた。
慶長年間伊豆守当崎城主なるに及んで、旧領地であった最上の郷長谷堂から之を城内に勧請して、城主の祈願佛を定め、祈願所観音寺をもこの地に移轉させた。
且つては当国三十三所札所として信仰を集めたものであったが、故あってこれを中止したものを、昭和の御代になって再び庄内札所番外として加入することになったのである。
西国三十三観音、坂東三十三観音、秩父三十三観音などの観音霊場に代表される札所や聖地を巡拝することを「巡礼」といいます。また四国八十八ヵ所など、弘法大師が修行された足跡をたどる霊場巡りを「遍路」と呼びます。
亡き人の菩提を弔う、自分や家族の病気が治るように、深い悩みや不安を解消するためなど、巡礼・遍路に出る人の動機は様々ですが、巡拝を進めるにつれて、「他人の立場に立って行動する」(身)「やさしい言葉で励ましあう」(口)「他人のためを思う」(意)という行い(善行)の大切さを、自然と理解でき思う様になります。
また、心を込めて手を合わせるうちに、仏さまやお大師さまとのご縁を身近に感じ、信心が深まっていきます。
札所では、体を清め、ご本尊の宝前に灯明・線香をあげ、お経や御詠歌をお唱えします。納札(おさめふだ)を奉納したり、写経や写仏を納めます。
納経帳や納経軸にいただく御朱印は、観音さまとのご縁を確かにする証しであり約束です。
そういう意味でご本人のみの物なので他人に差し上げるとか売買などはなさらないで下さい。
「身口意」を真言宗では三密と言い修行の基本とされます。
平安時代からあった言葉です。 (もし、気になったら真言宗のお寺で坊主がいたら聞いてみて下さい)
巡礼の方へ、
法務所用などで留守になる場合もあります。
扉は鍵がかかっていない場合もありますのでその時は御自由に開けてお詣り下さい。
(御堂の戸は重いかもしれませんがお詣りは「積善」ですので堂々とお入りください)
照明と蝋燭は点けたら退堂時には必ずお消し下さい。
防火上線香にもご注意下さい。
もう一つ、扉も閉めて下さいね。鳥が入ったり猫がいたりたまにはヘビも・・
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